新・駅前そぞろ歩記

武蔵嵐山
武蔵嵐山

昭和3年、日本の公園設計の父・本多静六博士が、槻(つき)川の景観を見て、京都の嵐山に似ていることから「武蔵嵐山」と名付けたのが、その名の起こり。それ以前は「菅谷」と呼ばれていました。武蔵嵐山駅も昭和10年に改称するまでは菅谷駅でした。歴史的には、平安末期から鎌倉時代にかけて日本史に名をとどめた木曽義仲や畠山重忠など坂東(ばんどう)武者ゆかりの地。折しも今年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも坂東武者が活躍します。

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武蔵嵐山
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嵐山町で歴史のヒーローといえば、源平の合戦で活躍した木曽義仲と畠山重忠(はたけやましげただ)。とくに重忠は鎌倉時代も御家人として源頼朝を支え、後世に「武士の鑑(かがみ)」と讃えられました。そこでまず武蔵嵐山駅西口から向かったのは、県立嵐山史跡の博物館。比企(ひき)地域の平安末期から戦国時代について学習できる施設です。博物館の南側には重忠の居館と伝えられる菅谷館(すがややかた)跡(国史跡)が広がっています。都幾(とき)川断崖上の台地にあり、本郭(ほんぐるわ)を中心に各郭が同心円状に配された広大な平城(ひらじろ)です。

菅谷館跡の近くには鎌倉街道(上道(かみつみち))が走り、重忠もこの道を通って鎌倉へ馳(は)せ参じたのでしょうか。街道沿いにある向徳寺(こうとくじ)は、坂東(ばんどう)武士団の児玉党の一人が出家して鎌倉時代に創建。本尊の阿弥陀三尊像は、国の重要文化財に指定されています。

また近くの大蔵神社には「大蔵館(おおくらやかた)跡」の案内板と古い土塁があります。ここは都幾川を挟んで菅谷(すがや)館と対峙する位置にあり、木曽義仲の父・源義賢(よしかた)が居住した大蔵館があったのです。しかし義賢は武蔵大蔵合戦でここで討ち死に、子の義仲は木曽へ逃れています。

大蔵館跡の近くにある行司免(ぎょうじめん)遺跡は、縄文・古墳時代から中世までの一大集落跡。畑の中に石組みの井戸跡が唯一残っています。

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武蔵嵐山
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大蔵館跡から都幾川沿いに西に向かうと鎌形(かまがた)八幡神社。平安初期に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が宇佐八幡宮を勧請(かんじょう)した社と伝わる、源氏とのゆかりが深い神社です。その一つが、境内の御手洗(みたらし)。社伝によると、木曽義仲が生まれた際にこの水を汲んで産湯にしたそうで、いまもこんこんと清水が湧き出ています。

ここから北上して槻川(つきがわ)を渡ります。橋の上流部は嵐山渓谷。埼玉県を代表する景勝地のひとつで、岩畳と槻川の清流、周囲の木々が織り成すみごとな景観と豊かな自然環境です。紅葉の時季が一番賑わいますが、冬の嵐山渓谷も静謐(せいひつ)な雰囲気が味わえます。

大平山(おおひらやま)の麓に建つ平沢寺(へいたくじ)は平安時代の創建と推察される古刹。往時には七堂伽藍と36の僧坊を持つ大寺院だったと伝わり、発掘調査では巨大な堂跡が見つかっています。

平沢寺からさらに北方の丘陵には、室町時代に築城された杉山城跡。戦国期の山城の傑作で「築城の教科書」ともいわれ、国指定史跡に登録されています。

武蔵嵐山駅東口から北東に進めば鬼鎮(きぢん)神社。畠山重忠が菅谷館の鬼門除けとして創建したといわれ、境内のいたるところに鬼の姿が。節分祭では「福は内、鬼は内、悪魔外」の掛け声で、赤鬼と青鬼が豆をまくのです。

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