新・駅前そぞろ歩記

幸手
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「しあわせの手」と書いて幸手。埼玉県幸手市は全国の自治体の中で唯一「幸」がつく市です。江戸時代、利根川支流の権現堂川に設けられた河岸は舟運の拠点として隆盛。回船問屋が立ち並び繁栄しました。しかし河川の洪水対策 によって昭和2(1927)年に権現堂川は締め切られ、舟運は幕を閉じます。しかし、後に残った堤には大正時代にサクラが植えられ、現在では権現堂桜堤として関東有数のサクラの名所となり、多くの花見客を集めています。

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 権現堂桜堤にサクラが植えられたのは大正9(1920)年。その5年後には見事に育ち、開花時には多くの人出で賑わいました。そして昭和4(1929)年に東武日光線が開通すると東京からも続々と花見客が訪れ、地元では本格的な桜まつりを催すようになりました。しかし、太平洋戦争で燃料の薪とするために、桜並木はすべて伐採されてしまいます。そこでサクラの復活を願って昭和24(1949)年に新たに植樹。それが現在、約1㎞余の堤に続く1000本超を数えるソメイヨシノの桜並木なのです。権現堂桜堤の魅力は、堤上の遊歩道の両側にサクラの花が咲くので、ピンクのトンネルを通り抜ける感覚。さらに堤の下には鮮やかな黄色の菜の花の絨毯が続き、サクラとの美しいコントラストが楽しめること。また、桜並木と並行して流れる川に水鳥が戯れる風景。3つの春景色が楽しめるのです。幸手権現堂桜堤は、隣接する権現堂調整池の水辺空間と併せて県営権現堂公園として整備。遊具を備えたレクリエーション公園、花と緑の万葉の公園などがあります。
「権現堂」の名の由来は、堤近くの熊野神社から。「村内に熊野、若宮、白山の権現を合祀せし旧社」(新編武蔵風土記稿)。

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 幸手はかつての舟運に加え、鎌倉街道中道の人の往来で中世から栄えていました。江戸時代になると日光街道の宿場町となり、日光御成道との結節点なので、日光街道21宿の中でもかなり大きな宿場町だったそうです。
 かつて幸手宿があった旧日光街道を歩いてみると、令和の世になっても宿場町の面影が残っています。通りそのものが商店街になっているのは、宿場町の旅籠や町屋が明治以降に家屋を建て直したり商いを変えたりしながら現代まで続いているから。大正から昭和初期に建てられた商家もちらほら目にします。そして多くの商家が小さな間口で奥行きのある宿場町特有の短冊型地割りを継承。かつて醤油醸造を営んでいた岸本家住宅主屋は、なんと幕末に建てられた国の登録有形文化財。幸手宿の生き証人なのです。
また、街道筋に社寺が密集しているのも宿場の特徴。聖福寺は日光に参拝する将軍や例幣使の休息所として使われたと伝わります。幸宮神社は幸手宿の総鎮守。満福寺では天明の飢饉の折、困窮した人たちのために幸手宿の豪商たちがお金を出し合って境内で施粥を行っています。そしてそのことを記念した碑は正福寺にあります。どの社寺も幸手宿と深く結びついているのです。

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